中国とソ連による「北朝鮮への援助合戦」
ジェット戦闘機の生産に着手して間もない中国による北朝鮮への軍用機供与は、中国の北朝鮮に対する安全保障上の関心の発露ともいえるものであるが、当時対立が深まるソ連との「援助合戦」の側面もあった。
北朝鮮も心得たもので「主体思想」を前面に出し、表向きは自力更生のポーズを採りつつ、水面下では中ソ両国を天秤にかけながら、両国からの支援を頼りに成長を図っていた。
この頃、ソ連中央は北朝鮮空軍がベトナム戦争にパイロットを派遣して実戦に参加したことを高く評価し、その見返りとして、1968年より従来のMiG-21の弱点であった機内燃料搭載量や射出座席などを大幅に改善したMiG-21PFシリーズの供与を開始した。
その頃、中国はMiG-21F-13(MiG-21の最初の量産型。レーダー未搭載)のコピーであるJ-7をようやく形にしたばかりであった。直ちに運用試験のために空軍最精鋭の第3戦闘機師団に配備され、頻繁に領土上空への侵入を繰り返す米高速偵察ドローンやU-2の迎撃に投入された。しかし上昇限度や兵器システムなど、その性能は期待を裏切るものであった。
中央軍事委員会は直ちに改良を指示したが、ソ連からの軍事技術協力が断絶した状況では見通しは決して明るいものではなかった。そこに「北朝鮮がMiG-21の最新型を供与された」との報が舞い込んだのだ。
北朝鮮はソ連製新型兵器の「ショー・ウィンドウ」
1972年8月、中国から張金波・第3機械工業部(現・中国航空工業集団公司)部長とJ-7の生産・改良を担当していた成都132工場(現・成都航空機製造公司)の技術スタッフが北朝鮮を訪れている。訪問の目的はもちろん北朝鮮が運用しているMiG-21PFの技術情報の収集であった。
彼らはMiG-21PFの構成やサイズなどを調べてデータ収集を行なったほか、同機に装備されていたKM-1射出座席やRP-21火器管制レーダー、R-11F2Sターボジェット・エンジンを中国に持ち帰った。そしてこれらを参考に、1974年には大幅に改善されたJ-7Ⅱが登場する。またこのデータやサンプルは、全天候型のJ-7Ⅲの開発を促すことにもなった。
つまり、中国軍にとって北朝鮮はソ連製新型兵器の「ショー・ウィンドウ」でもあった。MiG-21PF以外にも、S-75(地対空ミサイルSA-2)の新型モデルや対空捜索/要撃管制レーダーなどもソ連から供与されており、中国の技術情報収集の対象であったかもしれない。
戦闘機以外の航空機についても供与が行なわれた。1974年から翌年にかけて、ハルビンの第122工場(現・ハルビン航空機製造公司)で生産されたZ-5ヘリコプター(ソ連製Mi-4のライセンス生産版)40機、H-5爆撃機(イリューシンIL-28爆撃機のライセンス生産版)18機、さらに同練習機型 2機を供与した。
1974年8月には、中朝両国の間で新たな軍事協力協定が締結され、中国は北朝鮮国内にJ-6の整備施設を建設・提供することになった。この施設建設プロジェクトは「196工程」と呼ばれ、年間J-6×50機の大規模整備(西側のIRANに相当)能力と年間400台のジェットエンジンのオーバーホール能力を有する大規模なものであった。
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