積極的な軍事援助時代の終焉
翌1979年は、中国の対北朝鮮軍事援助の分水嶺となった。1979年以前の中国による兵器供与は無償であったが、これを境に有償による供与となった。
同年1月には米中関係は正常化しており、それに伴ってソ連封じ込めを目的とした米中の軍事協力は、中国に北朝鮮との距離をとらせる動機となったであろう。また、米との関係改善は在韓米軍に対する中国の警戒感を低下させたことは確実で、北朝鮮の「バッファーゾーン」としての存在感も低下したと判断したのかもしれない。
中国は欧米との関係改善を機に、改革開放へとその方針を大きく転換しており、鄧小平は北朝鮮に対する兵器供与についても、「イデオロギーの時代」を終わらせようとも言える。
1981年、中朝友好協力相互援助条約の締結から20周年を迎えたこの年、成都で生産されたJ-7Ⅰ×40機が北朝鮮に引き渡された。当時の韓国空軍の主力戦闘機はF-5Eであったので、十分対抗できるものであったし、またJ-7Ⅰは当時中国が輸出できる最良の戦闘機でもあった。
そして、筆者が確認しうる限りにおいて、これが中国から北朝鮮に対する最後の航空機供与となる。
1956年から1981年までの25年間、中国から北朝鮮に対して供与された航空機は各型合計で500機以上。航空機以外にもPL-2空対空ミサイル(ソ連製AA-2アトールのコピー)とHQ-2地対空ミサイル(ソ連製SA-2ガイドラインのコピー)のほか、各種の高射砲、早期警戒レーダーなど多数に上る。そしてその多くはいまだ北朝鮮軍の第一線で運用されている。
食糧やエネルギー面で援助
1981年を境に、北朝鮮は専らソ連からの兵器供与に依存することとなったが、ソウル・オリンピックが開催された1988年には、MiG-29とSu-25という当時の最新鋭戦闘機/攻撃機のほか、高速・長射程のSA-5地対空ミサイルをソ連から供与され、韓国・在韓米軍や周辺国を大いに警戒させることになる。
しかし、やがてソ連は崩壊し、ほどなくロシアは韓国との関係を正常化したため、北朝鮮との関係が冷え込んでいく。
一方、天安門事件で西側と袂を分かった中国であったが、1987年の大韓航空機爆破事件に代表されるように、過激化する北朝鮮への軍事援助は極めて低調なものであった。第8次5ヵ年計画(1991〜95年)中、中国が北朝鮮に供与した兵器は、早期警戒レーダー×2基と飛行訓練シミュレーター×1基に過ぎない。もちろん有償供与である。
しかし中国は、軍事援助こそ表だって行なっていないものの、冷戦崩壊によりソ連の援助が停滞したため苦境に喘ぐ北朝鮮に、食糧やエネルギーなどの援助を長年にわたり継続してきた。
この隣人が倒れれば、北上してくるであろう在韓米軍と国境線を挟んで対峙することとなる。隣人としては北朝鮮の方がまだマシなのだ。
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