意外と早くに始まったステルス研究
中国のステルス機に関連した研究は意外に早い。
1989年の天安門事件により政治決裂するが、1980年代は米中の軍事技術交流が活発になった時期であった。その交流の最中、「アメリカはステルス機開発を行なっている」(※1)との情報が中国の航空開発部門にもたらされた。
(※1)今回資料として使用した李天の回想において「1970年代にF-117が就役したことはたいへんな驚きであった」としているものの、F-117の就役は1980年代である。当時、極めて秘匿度が高かったF-117の情報が漏洩したとも考えにくいため、李天の記憶違いあるいは編者の誤りと思われる。
一方で1981年に明らかになったアメリカの「ATF計画」はステルス性能の追求を含むものであったことから、中国が入手した「アメリカのステルス機」の情報は、時期を考慮すると「ATF計画」に関連したものと思われる。
中国におけるステルス技術研究は、米ステルス機の開発情報を知った航空関連技術者たちが自主的に始めたものが最初である。瀋陽航空機工業集団(以下、瀋陽)601研究所のエンジニアである李天(リー・ティエン)(※2)らが、ステルス特性の理論研究を実施し、RCS測定や計算方法などの理論的分野を開拓していった。
(※2)李天(リー・ティエン)
1938年10月吉林省生まれ。1963年清華大学物理工学系卒。同年、601研究所に勤務。
当初は航空機整備士官(中尉)として空軍に従軍。その後601研究所の空力設計エンジニアとして多くの機体の開発・改良に従事した。特に新世代戦闘機の開発において重要な貢献したことが認められ、2005年には「中国科学院院士(高級研究員)」として選抜された。
現在の職責は、601研究所総設計士補、国家重点研究開発責任者、中国航空工業航空機研究専門家チーム長。
また、アメリカは1985年に「ATF(Advanced Tactical Fighter:先進的戦術戦闘機)計画」として、YF-22およびYF-23の競争試作を行ない、ロッキードYF-22(F-22)が採用され、実用化に向けた試験飛行が始められていた。
このアメリカの動きを受け、中国国防科学技術委員会(中国の軍事産業全般を指導する機関。2008年、国家国防科学技術工業局に改編)は、次世代戦闘機が「超音速巡航・ステルス性能・高機動性」を具備するものになることを予見し、1986年7月には次世代戦闘機開発に係る研究計画を関連の部門に対して指示した。
研究計画は以下の三段階に分かれていた。
第1段階:1990年までの第7次5ヵ年計画の期間中、各種技術についての理論研究
第2段階:第8次5ヵ年計画(1991〜95年)期間中、機体開発に向けた各種実験による検証
第3段階:第9次5ヵ年計画(1996〜2000年)期間中、「超音速巡航性能、ステルス性能、高機動性」の3つの要件をすべて具備する機体研究
この計画はステルス機の開発を直接指示したものではないが、将来の開発を睨んで、航空機メーカーおよび各研究所が協同で横断的に実施するものとされた。
1980年代の中国の戦闘機開発
ここで一度、中国がステルス機の開発を決めた1980年代が、中国の軍用航空にとってどのような時代であったのであったのかを整理しておきたい。
先に述べたように、1980年代は中国が西側に門戸を開き技術交流が活発になった時期である。軍用航空の分野でもアメリカのほか、イギリス、フランスとも関連の技術交流を開始した。
当時の中国空軍の動きを見てみると、1969年に初飛行した高速迎撃機J-8Ⅰは、ようやく1983年より配備が開始され、J-7Ⅲ(エジプトから入手したMiG-21MFを範としたJ-7の火器管制システム改良型)が初飛行に成功したばかりであった。
しかし、アメリカではすでにF-14やF-15、F-16など1970年代に開発が始まった新型戦闘機が続々と戦力化され、ソ連においてもSu-27およびMiG-29の就役が始まっていた。
また、1986年よりファーンボロー、1987年からパリの航空ショーに初めて参加し、J-8Ⅰを大幅に改良したJ-8Ⅱや、J-7に西側製アビオニクスを搭載した輸出向けJ-7Mなどを展示したものの、一部の途上国向けに少規模の輸出がまとまったのみで、成功とは程遠いものであった。
交流を通じて覗き見た外国の航空技術の発展ぶりは、中国に自己の航空技術が決定的に立ち遅れていることを痛感させたに違いない。
しかし彼らも、決して手をこまねいていたわけではない。1982年には後にJ-10となる新型国産戦闘機の開発は承認されていたし、先述の通り、さらなる新世代戦闘機開発に向けた研究に着手した。
一方で、当時の中国に対して、アメリカからはJ-8ⅡおよびJ-7の大幅改良が提案されていたほか、フランスからはミラージュ2000の売り込みも活発に行なわれていた。当時の空軍内には外国機導入を推す勢力も存在したとも言われ、ステルス機研究を含む国産戦闘機開発も決して安定した組織環境で行なわれたわけではなかったのである。
「改革開放」の方針に基づく経済優先の政策は、国防予算の減額に繋がり、航空機開発部門においても技術者や工員が職を離れることも少なくなかったという。
そんななか1989年の天安門事件は、欧米の対中軍事協力を一夜にして白紙に戻すこととなった。
航空機の輸入を含めた欧米との計画のほとんどが停止された。
しかし一方で、これを契機に、中国の航空機開発は一気に国産化へ向け動き出すこととなる。
さらに1991年に発生した湾岸戦争は、中国軍に自己の後進性を認識させる機会となった。中国軍は直ちに湾岸戦争について綿密な研究を行ない、1995年、中央軍事委員会は中国の国防体制について「ハイテク条件下の局地戦争に勝利すること」および「人員集約型軍隊から科学技術集約型軍隊へのトランスフォーム」をその目標とすることとなった。
この決定が、新世代戦闘機を含め中国軍の装備開発を加速させることとなったのは間違いないだろう。
コメントを残す