第1回 燃費の悪いガスタービン──M1戦車のアキレス腱(上)

この講座では、通り一遍の記事や俗説に流されず、独自の視点で古今東西の軍事を巡る諸問題を解説していく。

もともと軍事関係の情報には事実誤認が少なくない上に、現代の事象については、当事国が自らにとって有利となる虚偽情報を発信することが多い。錯綜する情報を吟味し、筆者がこれまで積み上げた知見とネットワークを駆使して、技術的・論理的に分析を進めることで、その実相を見極めていきたい。

あくまでさまざまな情報を基に理詰めで進めるつもりではあるが、周りに迷惑がかかるようなソースは提示できないし、秘密のベールに包まれた軍事の世界である以上、最後のところは推測・仮説の範囲を出ない議論となる。読者諸兄は、その点をご理解いただいた上で、気軽に読んでいただきたい。

今回は、米軍のM1エイブラムス戦車を取り上げることにする。

M1戦車は、マニアの間では「世界最強」との呼び声が高い。素晴らしい実力を備えていることについて筆者も異論はないが、決して完全無欠ではない。M1戦車の「アキレス腱」について解説していこう。

1980年に制式採用された戦後第三世代主力戦車M1エイブラムス。愛称は第二次世界大戦のバルジの戦いの英雄、クレイトン・エイブラムス陸軍大将に由来する(Photo:Dranac CP)

新型戦車の開発が急務に

ソ連は、1965年のモスクワでのパレードで、115ミリ滑腔砲を搭載したT-62戦車を公開した。

滑腔砲とは、砲身内にライフリング(施条)を持たない大砲である。ライフリングによる摩擦抵抗がないので、砲弾の初速を高められるとともに、砲弾が旋転しないことが対戦車用のHEAT弾の発射に適している。当時、新世代の戦車砲として脚光を浴びていた。

新型戦車の配備を着々と進めるソ連に対し、米軍の主力であったM48戦車やM60戦車は、第二次世界大戦に登場したM26戦車をベースに機動性と火力を強化したもので、性能面ですでに旧式化していた。もともと米軍戦車部隊は、ソ連よりも数的に劣勢であった上に、質的にも差をつけられたのでは話にならない。

米国は西ドイツと新型戦車の共同開発を試みた。MBT-70計画である。しかし、共同開発にありがちな設計方針のずれや、開発の遅れ、開発費の高騰などにより、1971年に同計画はキャンセルとなった。

1960年代にアメリカと西ドイツが、それぞれ「MBT-70」(下)と「Kpz.70」(上)として共同開発しようとした次世代主力戦車。しかし互いの目指す方向性の違いから開発は難航し、開発費も高騰したため、1971年に計画は中止された(Photo:[above]Clemens Vasters/[below]Mark Pellegrini)

その後、1973年の第三次中東戦争では、エジプト軍がAT-3サガー対戦車ミサイルを集中使用して、イスラエル戦車部隊に大きな打撃を与えた。この戦訓を受けて、新型戦車には、対戦車ミサイル(HEAT弾)の脅威に対抗するための複合装甲が必要と判断された。

かくして複合装甲と前述の滑腔砲の組み合わせが、第三世代戦車の要件となったのである。

1974年にはソ連が125ミリ滑腔砲と複合装甲を搭載したT-72戦車1の生産を開始し、西側でも新型戦車の開発が急務となった。

西ドイツでは、1977年に西側初の第三世代戦車であるレオパルド2を正式採用したが、米国では開発に手間取った。ベトナム戦争の敗北により、米軍全体が沈滞していた影響が少なくなかったと思われる。

ようやくM1戦車が正式採用されたのは1981年であった。

脚注

  1. T-72戦車……当時、T64戦車については、西側にほとんど情報が入っていなかった

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樋口晴彦
(ひぐち・はるひこ)
1961年生まれ。1984年に東京大学経済学部卒業。1994年にダートマス大学 Tuck School でMBA、2012年に千葉商科大学大学院政策研究科で博士(政策研究)取得。
警察庁・外務省・内閣安全保障室等に勤務し、オウム真理教事件・ペルー大使公邸人質事件・東海大水害などの危機管理を担当。現在は、企業不祥事の分析を通じて、組織のリスク管理と危機管理を研究。
著書に、『組織行動の「まずい!!」学──どうして失敗が繰り返されるのか』(祥伝社)、『なぜ、企業は不祥事を繰り返すのか』(日刊工業新聞社)、『本能寺の変──新視点から見た光秀の実像と勝算』『信長の家臣団【増補版】──革新的集団の実像』(パンダ・パブリッシング)など多数。