第5回[前半] 初飛行後に検証機はどう変わっていったか──J-20の開発(2)

第1回の冒頭で述べたとおり、2011年1月11日、J-20は成都航空機製造公司(以下、成都航空機)が所在する成都温江飛行場において初飛行を迎えた。

その後、J-20は試験飛行と修正・改良を繰り返していくことになる。

これまで、開発に至るまでの過程について述べてきたが、今回は中国の戦闘機開発の段階と、J-20にどのような検証機や原型機が存在し、それぞれがどのような試験飛行や改修を経て空軍へ引き渡しされていったかについて紹介したい。

中国の戦闘機開発における5つの段階

中国の戦闘機開発は、以下の段階に分かれているとされる。

1.研究論証段階
軍の要求とそのために必要な技術レベル、コストを併せて検討し、必要な性能を割り出す。それとともに設計案を策定する。

2.計画設計段階
研究論証に基いて航空機の構造や兵装を含む搭載システムの設計を深化させ、総合的な細部設計計画を策定する。後期においては、テストベッド1による試験や、電子モデルによるコンピュータ・シミュレーション試験を行なう。この段階の最後において検証機を製造し、試験飛行を行なう。

3.工程研究段階
検証機の試験結果を受け、所要の設計改修を行なうほか、実用機に必要な構成品を組み込んだ原型機による試験飛行を実施する。この段階における最終目標は、検証機によって得たデータから空力・システム・構造を修正して信頼性を向上させ、軍が試験飛行を始められる状態にすることである。

4.設計確定段階
この段階では、すべてのシステムを搭載し、戦闘機としてのすべての機能が要求に到達するように試験を実施する。機体はもちろんのこと、機上搭載システムすべてが要求に合致すれば、軍の審査に移行することになる。

5.部隊運用試験段階
この段階においては、小規模な試験生産を行ない、少数の機体を部隊に配備して作戦運用に耐えうるものかを確認する。

2.計画設計段階における試験飛行──2001−2004番機

最初に飛行した機体は「2001号機」である。2011年1月11日の初飛行の後、2001号機は3月から成都において本格的な試験飛行を開始した。同機は各種の機動試験や長時間飛行など、航空機としての基本的な飛行能力を検証する試験を集中的に実施している。

翌2012年3月には「2002号機」がロールアウトした。高速滑走など、主に地上における試験に従事していたが、10月には機首部のレドーム接合部が「のこぎり」状に改修された。レドームの色も変化しており、おそらく火器管制(FCS)用レーダーを搭載したものと推定される。

「China Defense Blog」では上から2002号機、2001号機、2003号機としているが、筆者は垂直尾翼の中国空軍の国籍マークの位置やピトー管の位置から、一番下の機体は2004号機か、もしくは2002号機を改番したものではないかと推測する。
なお、2001号機と2002号機では機首の形状や、垂直尾翼の国籍マークの位置、ピトー管の位置ははっきり異なっていることが分かる(引用元:China Defense Blog)

翌2013年には「2004号機」が登場するが、細部の形状(ピトー管が短い)や2002号機の存在が認められなくなったことなどから、2004号機は、2002号機の機番を「2004」にした機体の可能性がある。先に述べたレーダー搭載のための改修などに伴い、機体の管理上の理由から番号を変更したのかもしれない。

脚注

  1. テストベッド……新技術の実証試験を行なうため、実験台としてその新技術を搭載される機体

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薗田浩毅元自衛隊情報専門官、軍事ライター、ネイリスト
(そのだ・ひろき)
1987年4月、航空自衛隊へ入隊(新隊員。現在の自衛官候補生)。所要の教育訓練の後、美保通信所等で勤務。 3等空曹へ昇任後、陸上自衛隊調査学校(現小平学校)に入校し、中国語を習得。
1997年に幹部候補生となり、幹部任官後は電子飛行測定隊にてYS-11EB型機のクルーや、防衛省情報本部にて情報専門官を務める。その他、空自作戦情報隊、航空支援集団司令部、西部および中部航空方面隊司令部にて勤務。2018年、退官。