今回は晴れて設計担当となった成都の動きと、実際にJ-20の設計を指揮することとなる看板設計者・楊偉について見ていく。
今の中国からは想像が難しいが、その道程は平坦ではなかったようだ。
成都の「天才」総設計師・楊偉
成都航空機工業集団(成都)が、正式に設計コンペの勝者となったのは2007年10月8日のことだ。
この日、中国航空空力研究発展センター(四川省綿陽に所在。「29基地」とも呼ばれる)で実施された設計最終審査において、総装備部により成都案の採用が正式に決定された。そしてこの次世代戦闘機開発計画は「718工程」と呼称されることとなった。
中国の3桁数字のプロジェクト名は、慣例として「報告・計画が承認あるいは決定された時期」であることが多いので、おそらくこの日付に由来するものであろう。
成都案の正式決定を受け、成都はJ-20の総設計師として楊偉(ヤン・ウェイ)を指名した。
楊偉は1963年5月、四川省に生まれた。天賦の数学の才に恵まれ、15歳のとき、高等中学(日本の高校に相当)入学から僅か2ヵ月で大学入学資格を取得したほどだった。

1978年、当時15歳だった楊偉は、驚異的な数学の才能を除けば、パイロットになることを夢見ていた普通の少年だった。しかし、高等中学の身体検査においてひどい色弱であると診断され、パイロットの夢を諦めなければならないことを悟る。
母の勧めで航空工学の道へ
楊偉の母は、意気消沈している息子に向かって「銭学森と同じ学問を学べることは素晴らしい」と、西北工業大学で航空工学を学ぶことを熱心に勧めた。

当時の中国はテクノクラート(技術者から政治分野へ進む技術官僚)優位のお国柄であったため、母親は理系への進学を強く願ったのだろう。「理系を学べば、天下に怖いものなし」だったのだ。母親による勧めがなければ、現在のJ-20は日の目を見ていなかったかもしれない。
西北工業大学に進学し数年が過ぎた頃、楊偉は成都航空機工業集団へのインターンとなり、成都の研究所で過ごしている。当時すでにJ-10計画は動き出しており、インターンたちはその現場へ近づくことを禁じられていたが、楊偉は漏れ出てくる情報から、中国の航空機関連技術が外国と比して決定的に遅れていることを悟った。
J-10総設計士・宋文驄との出会い
1985年、22歳で修士課程を終えた楊偉は成都で働くことになる。
当時J-10の総設計師であった叩き上げの大ベテラン宋文驄(ソン・ウェンゾン)は、楊偉の数学の才に目を付け、入所から間もない彼を「冗長性および信頼性担当チーム長」として指名した。具体的にはJ-10のデジタルフライ・バイ・ワイヤ(FBW)の開発を担当させたのである。

楊偉は、J-10の開発を通じ宋文驄に師事した。宋は1966年に当時としては非常に先進的な「デルタ翼+カナード」配置のJ-9開発を提案したものの、文化大革命の影響などにより潰えてしまった。
しかし彼は諦めることなく30年以上の時間をかけ、J-10として結実させた執念の設計師であった。楊偉が宋と共に歩んだJ-10開発の十数年は、彼の設計師として実力を大いに進展させたことだろう。
コメントを残す