第4回 順風ではなかった成都の次世代機開発──J-20の開発(1)

衣類乾燥機の総設計師として大成果を挙げる

以前にもふれたが、J-10の開発計画が進展していた1990年代、国防予算の大幅削減により成都航空機も食うや食わずの状況であった。軍からの航空機の発注は減らされ、僅かな金を稼ぐため、技術者と工員が一緒になって工場の作業台で箸袋を折ることさえあった。

このような状況のなか、楊偉はFBWの開発ではなく、軍需品の製造機器を活用した民生品の開発で才能を発揮する。欧州との技術交流のコネを使い、ドイツの製品安全規格に基づくGSマーク認証を取得し、衣類乾燥機や冷蔵庫を生産した。成都の家電品は、無骨だが頑丈で信頼性が高いと評判になり、大手ホテルや病院、軍の施設などがこぞって購入してくれた。

この結果、楊偉は民生品事業で社員に特別ボーナスを配れるほどの金額を稼ぎ出した。若い天才設計師は、航空機ではなく家電品で成都の窮状を救ったのだ。

楊偉が成都航空機で開発・製造したドラム式洗濯乾燥機

「家電品の総設計師・楊偉」の社内での評判はうなぎのぼりで、彼を民生品部門のリーダーとして昇進させるべきとの意見が出されるほどであった。しかし当時のAVIC(中国航空機工業集団。中国の航空機開発メーカーの上部単位)の責任者である隆高倬(リウ・ガオジュオ)の耳に入り、隆は成都に対して「彼は私の後を継ぐべき男だ」と伝え、楊偉は航空機開発に留まることとなった。

これは異例なことで、例えるなら、地方の子会社の若手技術者の人事に、親会社の社長が直接介入したようなものだ。楊偉に対する中国航空業界の期待が窺えるエピソードと言える。

墜落事故を起こさずJ-10のFBW化を達成

その後、楊偉が率いる若いFBW開発チームは、フランスのダッソー社の支援を得たほか、テストパイロットと共にアメリカに赴きカールスパン社(米航空エンジニアリング企業)において実地に研究を行なった。また、イスラエルから提供されたラビの技術を通じ、その技術的空白を次第に埋めていった。

外国の技術を参考にする一方、中国でもFBW技術の研究が進められた。1985年より、瀋陽とドイツのメッサーシュミット・ベルコウ・ブローム(MBB)社は、瀋陽J-8にMBBの器材およびソフトウェアを搭載した機体(J-8 ACT)を使用して共同のFBW技術研究を実施している。

この研究機は1991年に墜落してしまい(MBB社のソフトウェアの欠陥が原因とされる)、同時に共同研究も終了することになったのだが、この際に獲得した研究成果も、成都の楊偉たちにもたらされたことであろう。

1885年にMBB社との共同で開発したJ-8 ACTテストベッド
こちらは本稿と直接関係ないが、瀋陽の瀋飛航空博覧園に展示されている、J-8Ⅱのもう一つの実証試験機(J-8Ⅱ ACTテストベッド)。1999年にJ-11BのFBW開発などのためにつくられた(Photo:Shinsuke Yamamoto/ブログ「用廃機ハンターが行く!」)

1998年3月、J-10技術検証機(初期試作機)の初飛行を皮切りに、2004年の軍による量産承認までの間、幾多もの試験飛行が繰り返された。

1970年代以後、F-16をはじめとしてFBWを搭載した戦闘機が続々と開発されたが、それら機体の多くは、開発中にFBWの不具合を伴う墜落事故を発生させている。しかし、楊偉がFBWを担当したJ-10は事故を起こすことなく量産にこぎつけることができた。

2004年、J-10の部隊配備を見届けた宋文驄が引退する。これを境に楊偉は成都の看板設計師への階段を歩み出すことになる。

1件のコメント

国の音頭取りが上手く機能しているのが怖い。これ中国の強みかな。
日本じゃ機能すのか?帰属企業への感情面でうまくいかないような気がしますね

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薗田浩毅元自衛隊情報専門官、軍事ライター、ネイリスト
(そのだ・ひろき)
1987年4月、航空自衛隊へ入隊(新隊員。現在の自衛官候補生)。所要の教育訓練の後、美保通信所等で勤務。 3等空曹へ昇任後、陸上自衛隊調査学校(現小平学校)に入校し、中国語を習得。
1997年に幹部候補生となり、幹部任官後は電子飛行測定隊にてYS-11EB型機のクルーや、防衛省情報本部にて情報専門官を務める。その他、空自作戦情報隊、航空支援集団司令部、西部および中部航空方面隊司令部にて勤務。2018年、退官。