第3回 なぜ瀋陽案は敗れたのか──J-20の開発背景(3)

開発のスタート──10年遅れの「ステルス機開発ゲーム」

J-20開発コンペの勝者が成都に決定された2007年、成都の自主開発のJ-10が生産を開始してから3年が経っていた。中国がF-22に遅れること約10年でJ-20の開発を本格化させたのは、ソ連が10年先輩のF-15を追いかけてSu-27を開発したのと時間的タイミングは似ている。

当時、ソビエトの航空機開発においては電子技術の遅れが深刻であり、F-15のAN/APG-65火器管制システムに対抗すべく開発したN001火器管制システムは、性能に比して巨大な構成となったが、それを機体の大型化と大出力エンジンで乗り切った面がある。

中国も10年遅れで「ステルス機開発ゲーム」に参加することになった。10数年の各種研究を通じ、研究成果を上げてきたものの、米国に比べればその“手札”は決して多くはなかった。

成都は、過去に実施したステルス試験結果に加え、F-117やF-22のモックアップを作成し、更なるステルス試験を行ない、対象となる米ステルス機の特性を究明に努力する一方で、ステルス構造材やステルス塗料の開発にも多くの時間を費やし、そのギャップを埋めなくてはならなかった。

ロシアから提供されたSu-27SKの技術情報およびJ-10の開発を通じて、FBW(フライ・バイ・ワイヤ)や前尾翼制御技術は掌握できていたが、肝心のエンジンについては心許なかった。

鳴り物入りで開発が行なわれていた国産アフター・バーナー付ターボファン「太行(タイハン)」エンジンは、超音速巡航性能の実現のために必要不可欠であったが、開発は難航し、採用は長期にわたり遅延していた。

J-20は当初、強力なWS-15を搭載予定であったが、同エンジンの開発は不調であることが伝えられ、WS-10の改良型(WS-10C:推力14.5〜15トン)を搭載することになってしまう。このあたりの話は、のちの機体構造などの回で詳しく解説する。

とにかく、そのため試作機には、超音速巡航性能をあきらめ、ロシアのフランカーシリーズのリュールカ・サトゥルンAL-31F(推力約12トン)を積むことで我慢するほかなかった。

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薗田浩毅元自衛隊情報専門官、軍事ライター、ネイリスト
(そのだ・ひろき)
1987年4月、航空自衛隊へ入隊(新隊員。現在の自衛官候補生)。所要の教育訓練の後、美保通信所等で勤務。 3等空曹へ昇任後、陸上自衛隊調査学校(現小平学校)に入校し、中国語を習得。
1997年に幹部候補生となり、幹部任官後は電子飛行測定隊にてYS-11EB型機のクルーや、防衛省情報本部にて情報専門官を務める。その他、空自作戦情報隊、航空支援集団司令部、西部および中部航空方面隊司令部にて勤務。2018年、退官。